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-海外農業事情調査レポート-

ネパール農業事情

社団法人国際農業者交流協会 業務課 皆戸顕彦

 2010年10月27日から11月5日まで、東京農業大学名誉教授の鈴木俊先生(調査員)、デリ・カティワダ氏(コーディネータ)と共に、ネパールの農村・農業教育の現状及び研修生事業展開の可能性について調査を行ってきました。

 調査対象は、@農業経営者とその家族、A送出機関、B農業教育機関などでした。

 ネパールは、中央アジアの中国とインドの間に挟まれた東西に細長い国です。北部地域はヒマラヤ山脈が連なり、一方200kmも南へ移動すれば、標高200m以下の平坦な低地帯が広がっています。イメージとしては、巨大な急斜面です。大きく分けて、山岳地帯、丘陵地帯、そして低地帯の3区分ができます。この地形がネパールに多様な気候帯をもたらしています。北部では高山植物が育成するような寒冷地が広がり、南部では、バナナやパパイヤが取れる熱帯が広がっているのです。お米はネパール全土で作られています。

カトマンズ盆地を飛行機から

 首都カトマンズは国の中心よりやや東側の丘陵地帯の巨大な盆地の中にあります。この広大な盆地の中には、ネパールの全人口(約3000万人)の四分の一が暮らしているといいます。 国民の多くが農家です(外務省のホームページによれば、国民の65%ほどが農業に従事)。GDPは8000億ネパールルピーほど(約一兆円)ですが、そのうちの30パーセントほどが農業によるものです。

 今回私たちは、丘陵地帯のカトマンズ盆地やそこから西に200kmのポカラ、低地帯のチトワン郡などを巡って、ネパールの農村・農業教育・農民の暮らしを調べてきました。


≪カトマンズ盆地≫

大混乱する路上

 カトマンズのトリブバン国際空港に到着し、レンタカーで走り出すとすぐに気がつくこと。それは町を覆う土煙。インドTATA社の大型トラックがカトマンズ環状線を猛烈な勢いで走行し砂埃を巻き起こし、時々火事場の黒煙のような排煙を噴出していました。そんな道路の脇をカラフルなサリーを身にまとった女性が平然と歩いています。そして、混沌とした交通。車2台が通れる道を、車3台が並走、前方車両を追い抜く時、チキンレースさながらに対向車が迫りくる緊張感、信号機が無いので、街角で警官が交通整理するも、何を基準に車を誘導しているのか分からない。そうか、これがネパールなのか。衝撃的なネパールの日常が私を包んでいました。
 ウェルカムトゥーネパール。

研修生送出機関を訪問

 この国で何か仕事をしようと思ったら、大都市に出る必要があります。カトマンズにはほとんどすべての主要な企業が集まっており、海外研修に関する組織や会社もここにあります。
 JICAのボランティア活動をしている隊員たちも、多くがこの地域で活動しているようです。

 カトマンズへは人も物もたくさん運び込まれてきます。多くはトラックやバスでやってきます。
 政情不安定な状態が長く続いていることが、この国の発展を遅らせている原因になっているようですが、標高1300mにあるカトマンズへ遠路はるばるインドから輸入物が運ばれてくるにあったって、ライフラインともいえる幹線道路が一本しかないというのも根本的な要因ではないかという印象を受けました。

≪農家の暮らし≫

 カトマンズ盆地に限らず、ネパールはどこへ行っても田んぼや畑が広がっています。米はインディカ米です。私たちが訪問した時期はちょうど米の収穫時期で、各地で稲刈りや脱穀の作業が見られました。ポカラはカトマンズほど大きな町ではありませんが、ヒマラヤの美しい風景をバックに、黄金色の田んぼが美しく映えていました。そして、色々な地域の農家の方々と知り合い、お話を聞く機会がありました。

 盆地は都市化している為、農家は自分たちで作った作物を持って行って売ることができます。ポカラでお話しを聞いた養豚農家では、市内に肉屋を経営し、そこに豚肉を卸しているということでした。

 しかし好条件の農家ばかりいるわけではありません。標高2000mを超える小高く谷深い山々が延々と連なる丘陵地帯。その一つひとつの峰に小さな農家の家がポツリポツリと置かれ、山肌には蛇腹のように棚田が幾重にも刻まれています。ネパールの農家は経営面積が比較的大きいのですが、こんな谷間の急斜面を管理していくことの大変さは想像に難くありません。カトマンズからチトワンへ移動する山間の道で、幾度となく車を止めてもらい、それら農民の血汗の結晶を眺めました。家族に子供が生まれるたびに山を切り開き、徐々に大きくなっていったのでしょう。悠久の努力に想いを馳せ、21世紀に今なおこうして生業を繰り返す人々がいることに感嘆しました。

 うまく水を利用できない棚田は、畑として利用しています。そこではヒエやソバなどを栽培していました。ヒエからはお酒を作りソバは麺にして食べるそうです。その他にも野菜などを育てていました。野菜は、瓜やカリフラワー、大根、キャベツ等が作られていましたが、気候帯の幅広いネパールならば、日本でできるほとんどの野菜を栽培できる環境があると感じました。

ヒマラヤ山脈と棚田の風景

ヒエ(フィンガーミレットという独特の品種)

 山間の農家は収穫した野菜を近隣の道まで運び、やってくる予定の運送トラック(卸業者)をひたすら待ちます。いつ来るかは分かりません。やがてやってきた業者に野菜を引き取ってもらい、現金収入を得るのです。地方の農民には市場の様子が分からないので、農産物を買いたたかれてしまうこともあるようですが、市場価格を知ったところで他に販路があるわけでもなく、なるがまま生きているということでした。

農家への聞き取り調査中

 低地帯はタライと呼ばれ、インドまで続く平坦な地域です。チトワンは、かつてマラリアが発生し危険な地域でしたが、今ではかなり駆逐されて、クロサイやトラの生息するジャングルを目当てにたくさんのツーリストが来る観光地になっています。

 山間地域では難しいトラクターでの耕起や運搬がタライでは可能です。また広い土地では、大きな一枚田を作ることも可能です。少しお金があれば、畜産施設を建設して、養鶏や養豚もできます。そういった意味で、タライは恵まれた農村地帯かもしれません。しかし、実態は、農家にマネージメント能力や生産技術が無い、農薬利用や販路に関する指導を受け難いなど問題があるそうです。


≪ネパールと日本≫

 ネパールはヒンズー教と仏教の国です。ヒンズー教と言えば、牛を神の使いとして崇めています。噂に聞いていた、「車が牛をよけて走る」というのは本当でした。ただ、一部訂正があるとしたら、「車は牛や人やその他諸々をよけて走る」という方が正確だということです。遠慮していたら、いつまで経っても目的地に着けないと思います。

 食べ物はどれも日本人の口に合うと思われました。ダルバートというのが、ネパールのカレーです。金属のプレートの上にダルと呼ばれる豆のスープ、炊いたインディカ米、野菜や肉類のカレー、トマトソース等が乗せられていて、右手でそれらを混ぜながら食べます。私たち外国人はスプーンを使わせて頂きました(食前に手洗いする場所がなかったので)。飲用水には注意が必要でした。井戸水はもちろん、水道水も飲むのはやめた方がいいと言われ、常にペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいました。

 今回の調査では、「同じアジアの国、仏教の国(ヒンズー教もありますが)といえど、日本とはずいぶん異なるものだ」という印象を得ましたが、つい50年前の日本も、もしかしたらこんな感じだったのかもしれないと思う瞬間がたびたびありました。ネパールの人たちが閉塞的ではなく、これからネパールは良くなるという強い思いを持っているように見えました。

 ネパールの農民はよく働いていました。ネパールの子どもたちは無邪気で好奇心旺盛でした。ネパールの人々は謙虚でホスピタリティーにあふれていました。

 そういう事は日本人にも通じるものであり、戦後の復興を担った日本人たちも、きっとこんな風に暮らしていたのではないかしらんと、砂利道から巻きあがる砂埃に霞む遠方のヒマラヤ山脈を見ながら考えていました。

ネパールカレー(ダルバート)

農家の子供たち

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