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言葉の壁を越えた音楽が与えたもの

渡邉敏行(スイス修生:茨城県出身)
 

 
「5月、私たちは大きな力を得、そしてもう少しで失わなければならない。私は今それが残念でならない。」ー これは昨年12月クリスマスコンサートの後に団員の一人が私に言ってくれた言葉である。音楽を続ける限り私はこの言葉を、この感動を忘れないだろう。

 趣味がトランペット演奏である事を知った農場の奥さんの勧めで、地元の市民バンドに参加することになった5月。初めての合奏日、私はいくらか緊張して会場へ向かった。「受け入れてもらえるだろうか?」「ドイツ語での合奏についていけず周りに迷惑をかけないだろうか?」そんな不安があったが、始めてみるとそんな心配は杞憂であった事が分かった。皆私のことを温かく迎えてくれたし、サポートしてくれたのでスムーズに溶け込めた。何と言っても日本と楽譜が同じということで助かった。そんなの当たり前だと思うだろう。しかし、指揮者が何を言っているのか良く分からない時ほど、その当たり前の事を実感した瞬間はなかった。曲のどの部分から始めるのかさえ指で示してもらわないとわからない状態なのに、いざ指揮者の合図で演奏を始めてみると何の問題もなく合奏ができるのである。『芸術(音楽)は言葉の壁を越える』とは良く聞く言葉だがまさにその通りだった。

 こうして私は市民バンドの活動に夢中になっていた。会合や旅行で農場を離れている時以外は、どんなに疲れている時でも多少体調が悪くても練習に行った。週一回の合奏が待ち遠しかった。ここまで私が一生懸命になったのは、団員たちの存在が大きい。いつも笑顔で迎えてくれ、たまに練習後飲みに連れて行ってくれた。一緒に演奏していると、本当に音楽が好きなんだなあという気持ちが伝わってくる雰囲気も好きだった。何と言っても私を一人の仲間として扱ってくれたことが嬉しかった。

 市民バンドを通じてスイス文化に触れる事もできた。例えば誕生日演奏会。おじいさんやおばあさんが80歳85歳等の節目の年を迎えると家族がバンドを呼んで小さなコンサートをするのである。30〜40分ほどのコンサートの後はバンドと家族が一緒に誕生日を祝って乾杯する。たった一人のための演奏会。おじいさん、おばあさんの喜ぶ顔、それを見守る家族の微笑みは私の心を温めてくれた。その他にも色々と演奏する機会に恵まれた。結婚式、記念コンサート、教会で賛美歌の伴奏、定期演奏会、そして悲しい事ではあるが元団員のお葬式で演奏した事も強く印象に残っている。音楽を通じて、海外旅行や農業研修だけでは得られない事を体験できた。その意味でこれまで音楽を続けてきて良かったと思うし、市民バンドを紹介してくれた農場家族、仲間として迎え入れてくれた団員達に心から感謝している。

 今、5月の演奏会に向けて練習に熱が入っている。私は3月に帰国をひかえながら今も合奏に参加させてもらっているのだが、皆から「5月の演奏会には日本からトランペット引っ提げて吹きに来るか?」と言われ、「往復の航空チケットを送ってくれたらね!」なんて冗談を言い合っている。

 私の音楽歴に貴重な足跡を残してくれた仲間との時間も残りわずかである。